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2012年05月20日

野球界の今日の情報が入りますよー。

【PODCAST最新号】典型的なダメ配信です [聴いてみる]

[野球]

稲尾和久をつくるもの

岩間翔吾 = 文
text by IWAMA Shogo

野球

改めて偉大な選手だった。

大分の別府市民球場に併設されている稲尾和久記念館に足を運んだ。
記念館と言っても、メインスタンドの一階にこじんまりと資料コーナーがある程度に過ぎない。
館内には稲尾氏の現役時代のユニフォームや獲得トロフィー、また秀でた成績を記した表などが飾られ、生前のインタビュー映像が繰り返し流されていた。

球場自体は甲子園球場を参考に設計されている。両翼やバックスクリーンへの距離やファールグラウンド面積まで準じていて、地方球場ながらもプロ野球規格を充足している。
高台に面していて、市内から別府湾までのぞく絶景。
ぜひ別府へ行く機会があれば覗いていただきたい。



稲尾和久は鉄腕と呼ばれた。その通称がいったいいつから呼ばれていたのかは定かではない。しかし定着したきっかけは間違いなく58年の日本シリーズだったろう。
第三戦からの5連投、チームを3連敗から4連勝に導き日本一。ファンから「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれるきっかけとなった日本シリーズだ。

そんな鉄腕は貧乏から生まれた。
昭和一二年に七人兄弟の末っ子として生まれた。兄たちは頑固一徹な父を敬遠して漁師にならなかったために、父久作は末っ子である和久を漁師にする決意だった。
六歳から船に乗り海に出た。しかし貧乏漁師だったために釣果に頼るその日暮らし。和久のおやつは魚の骨だった。
日当たりの悪い長屋住まい、釣り糸に塗るシブの強烈な匂いはまるで便所の臭いだ。
そんな幼少期、魚の骨で骨格が出来た、櫓を漕ぐことで腰と手首が鍛えられたと本人も考えていた。

稲尾少年が初めてグラブを手に入れたのは小学六年生、質流れの中古品だった。
困窮を極めた生活の中で何度もなんども母にねだった。質屋通いをしていた母かめのは、「その日の食う物にも困っているのにそんな金どこにある!!」と相手にもしなかった。
しかし優しい母だった。「欲しかったんじゃろ」と言い皮がカチカチに固まったグラブだった。長兄の死亡一時金で買ったものとはいえ常に和久のことを考えていた、優しい母だった。


和久が高校進学の意を打ち明けた時、久作は目をむいて反対した、「漁師に学問はいらん」。
彼の資質を惜しんだ中学野球部の監督も説得に当たったが久作は頑として譲らなかった。結果漁師を継がなかった兄たちを実家に呼び寄せ説得させることで父は進学を許した。
そんなわけで久作はプロ入りの際にも大反対した。「お前しか跡取りはいない」と繰り返した。ここでは兄たちに加え近所の漁師仲間も説得に当たったのだ。連日連夜、徹夜も辞さない話し合いの末、「漁師はわし一代でえぇ!」。海を大事にする男は寂しそうに呟いた。

彼は酒に酔うと子供たちに決まって格言を聞かせた。
「実るほど頭の垂れる稲穂かな」が大好きだった。子供たちは「また始まった」とうんざりしていた。しかしプロ入り後、稲尾が慢心で成績を落としたとか横柄な態度になったとかいう話を聞いたことがない。


実は西鉄にとって稲尾は是が非とも欲しい人材ではなかった。
当時の西鉄は九州の選手は全部取るという方針があったのだと言う。一年上の和田博実を取るために別府に寄ったスカウトが、泊まった旅館の女中さんから「南海が稲尾に目を付けている」と聞いて邪魔するための獲得だったらしい。(自由獲得時代の雰囲気がよく伝わるエピソードだ。)
南海は稲尾が一年生の時から目を付け、コーチを派遣し直接指導していたのだ。その一年後には西鉄も接触を図ったものの、すでに南海が野球部後援会にも食い込んでいたため南海入団が決定的だった。しかし南海と西鉄が提示した契約金・月給が同金額だったため、久作の「地続きなら会いに行ける」との一言がきっかけで西鉄入団が決まった。
実は久作が西鉄入団を後押ししたのにはもう一つ理由があった。
南海が当時仲介役として野球部後援会の有力者を立てた、その人が金貸しみたいなことをやっていたのだ。貧乏で借金に泣かされた稲尾家が南海を敬遠したという事情もあったらしい。

契約金は酒屋と米屋への借金払いにおおかた消えた。
一年目から新人王を取った稲尾の給料は上がり、実家には四万円の仕送りが出来るようになった。当時は大卒の初任給が八千円の時代だ。それでも久作は漁に出ては必要分だけの魚を取って生活を支えた。時にはかかった魚を海に帰すことがあったそうだ。
かめのは行商を続けた。周囲は息子の稼ぎで楽することを勧めたが、「あれはあれ、自分は自分」と言い行商をやめなかった。それまでお世話になったお得意さんには仕入れ値より安く売っていた、恩返しの気持ちを忘れなかった。


珍しく小雪の舞う中福岡のライオンズ寮の門をくぐった時、唐草模様の風呂敷包み一つだった。
この青年が入団して西鉄ライオンズは黄金期を迎え、三年連続日本一となった。
輪の中心には常に背番号24がいた。
厳しくも優しい両親と、お金のない過酷な生活環境によって、野武士軍団のエースが作られたのだ。

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