野球舌-プロ野球・メジャーリーグ・高校野球のラジオ/PODCAST

プロ野球のインターネットラジオ

野球舌-プロ野球・メジャーリーグ・高校野球のラジオ/PODCAST

2019年06月18日

野球界の今日の情報が入りますよー。

【PODCAST最新号】雑談 [聴いてみる]

[野球]

創部80年の夢と名将

岩間翔吾 = 文
text by IWAMA Shougo

野球

10月27日、國學院大学(以下国学院)が東都大学野球リーグで創部以来初めて1部優勝を果たした。
勝てば優勝という亜大戦で7-0の完封勝利。
リーグの中で投打ともヒーロー不在ながらも、沢村(中央)、乾(東洋)、東浜(亜細亜)らプロ注目の投手に土を付け「戦国東都」の覇者になった。

球場に入るとまず国学院の応援団員の人数に驚く、ざっと三、四十人はいる。学生自治組織の一つとして歴史は戦前まで遡る、解散や活動停止をせずに存続している応援団は大学の中では極めて稀だ。今や失われつつある厳しい上下関係に身を置くことを望んで応援団に入るケースも多いらしい。

国学院の野球部は少なくとも歴史と言う点においてはどこの大学にも負けていない。
実は東都大学野球リーグの結成メンバー校のひとつなのである。
東京六大学に遅れること六年、昭和六年春に専修大学・中央大学・日本大学・東京農業大学との五大学で最初の覇を競ったのである。
しかし日本一の応援団をよそに成績は低迷。戦後に加盟大学が増えると二部に転落し、長くのシーズンを二部で過ごすことになった。

そのレベルの大学だ、甲子園常連校の選手がやってくることはない。
スター選手としてプロに入った井口資仁(ロッテ)は付属の国学院久我山の選手だったが、東都のライバルである青山学院大学への進学を選んだ。これは国学院の野球部がいかに低迷していたかを証明している。
ところが今では毎年のようにプロに選手を送り出しているし、甲子園常連校の選手が入学するようにもなった。理由は一人の名将にあった。


竹田利秋。高校野球のファンであればよく知る名前だろう。
東北・仙台育英を率いて甲子園春夏通算30勝した名監督だ。その頃プロに輩出した選手は数知れず。80~90年代の高校野球の西高東低を考えると、白河の関越えは彼のチームが達成するのでは、とさえ言われていた(仙台育英で1989夏の準優勝が最高成績)。
後に同校の教頭を務めていたところ、国学院の理事長から「野球部を強くしたいから監督になってくれ」と頼まれた。理事長自身が個人的に西武球場の年間指定席を持っているほどの野球好きで、その情熱に心を動かされる形で母校の監督に就任した。
彼自身、国学院の惨状に心を痛めていたし、自分が就任すれば一、二年で1部に上げてやれると意気込んでいた。
国学院のグラウンドは本校舎のある渋谷から電車で30分ほどのたまプラーザ校舎にあって野球部の合宿所もそこに併設されている。竹田が学生の頃には専用グラウンドはなく、三鷹にあった東大のグラウンドを借りて練習していたのだ。自分の頃との環境の違いを目の当たりにし、一部昇格に確信を持った。

しかしその自信も監督として内側に入るまでのものだった。自身のキャリアで経験したことがないことが次々と見せられることになった。
就任してまもなく、春のリーグ戦に向けて練習を始めるとピッチャー達が肩が痛いと言ってきた。竹田は肩を痛めるほどの猛練習を課していなかったがすぐに原因がわかった、彼らが投げるのは試合のときだけで練習で肩を作るようなことはしていなかったらしいのだ。投げ過ぎや、フォームが悪くて肩を痛めるのではなく、ただの練習で筋肉痛をおこしたのである。
練習に出てくる部員はまだいい方である。学業を理由に練習をさぼったり、風邪をひいたや腹が痛いと言って、部員全員が揃って練習することはほとんどなかった。
リーグ戦を始まっても、ベンチ入りしなかった上級生が球場にやってこない、聞くと合宿所で麻雀をしていたと言うのだ。
試合になっても「野次が汚い」と審判に注意を受け、扇の要に金髪のアフロヘアーが座っていた。高校野球で早い時期から選手の長髪を許した竹田も恥ずかしくてたまらなかった。注意をすると「やめます」「監督とは野球観が違います」と口にする。
竹田は一部に上がるどころか、まともに野球出来ないところに来てしまった。

竹田がまず取り組んだのは、上級生と下級生のおかしな序列を無くすことだった。
就任当時、二年生だった渡辺俊介は前年に野球をやったことがなかった。上級生の洗濯と掃除に忙殺されていたのだ。新築の合宿所に土足で上がる上級生の後を雑巾を持って拭いて歩くなどということもあった。
しかし竹田は自分の事は自分でやることを部員に求めた。
「お前らは上級生になるにしたがって楽になることがおかしいと思わないのか?世の中は逆だ。上に行けば行くほど仕事が増えて、責任も重くなる。これが当たり前だと思ったら世間に出て笑われるぞ。野球は人間がやるんだ、人間が本物にならなければ野球は本物にならんぞ。」
こう言って部内での仕事量は四年生が一番多く受け持つことになった。
当時の上級生には面白くなかっただろう、自分たちが受けた仕打ちをする権利が上級生になっても与えられない。実力のあるレギュラークラスの選手の多くがやめていった。しかし竹田はそんな部員を引きとめようとしなかった。
残った部員をチームとしてひとつにするためにレギュラークラスの選手以外にも役割を与えた。学生コーチやブルペンキャッチャーに指名し、上級生には下級生への技術指導を積極的に進めた。

こうした人間教育の成果は、まず野球以外のところに表れた、野球部員の就職率がよくなったのである。
「かなりの一流企業でも面接まで行けば高確率で受かるようになった。」と渡辺は言う。野球すら出来なかった部員が社会でも認められるようになっていった。

こうして野球でも牛歩の如く一歩一歩着実に力を付けていく。
セレクションに来てくれる高校生は相変わらず実力不足。しかし光る長所を見逃さず、上のレベルで通用する選手に育てる、その第一号も渡辺だった。彼は竹田に褒められることで新日鉄君津への道を切り開いた。
渡辺と入れ替わるように矢野(巨人)、梅津(広島)などが入部し、竹田は手応えを感じ始めていた。
2部での順位も上がり、平成18年度ようやく立正大との入れ替え戦に勝利、竹田就任11年目の一部昇格だった。


大学の一世代が4年、そう考えると竹田は3周したことになる。今回の優勝までさらに5年、全てが新しくなるうちに竹田は曾祖父ちゃんになっていた。
彼は「常に良いところでバトンを渡したい」と考えていた、そのバトンは教え子でありコーチとして共に戦った鳥山監督の手によって就任一季目で初優勝という結果に繋がった。

試合後に鳥山監督と固い握手を交わした曾祖父ちゃんの目に、この快挙はどのように映ったのか?
曾孫たちの冒険は神宮へと続く。

■関連新着コラム

創部80年の夢と名将

沖縄勢の熱い春

稲尾和久をつくるもの

ソーシャルブックマークに追加:

  • gooブックマークに追加
  • Yahoo!ブックマークに追加
  • はてなブックマークに追加
  • Buzzurlに追加
  • livedoorクリップに追加
  • FC2ブックマークに追加
  • newsingに追加
  • イザ!に追加
  • deliciousに追加

野球舌的選手名鑑

一覧を見る

プロ野球関連のお店

一覧を見る

都内バッティングセンター巡り

一覧を見る
このページのトップへ